日本の医薬分業の発展期

分業元年〜平成の日本の医薬分業の発展期について

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医薬分業は1995年から2005年の10年間に飛躍的に発展しました。国の強力なバックアップ、薬局の整備、医療機関の処方箋発行と薬局で調剤するとうい習慣が広まったのでした。

 

分業元年〜平成の日本の医薬分業の発展期について

 

初期段階では分業体制が不十分だった

 

分業元年より日本各地で先進地区がそれぞれの独自の形で発展しました。秋田・佐賀では診療所とマンツーマン方式、東京三鷹地区では大病院からの処方箋の発行、長野県上田市は医師との同窓生などの縁を用いて組織的に受け入れしました。また東京蒲田では強力なリーダーシップで分業が推進されました。

 

薬局側の受け入れ準備はゼロからのスタートでした。それまでは薬局はOTC薬や雑貨の販売で生計を立てていました。分業に取り組むことになったのはいいですが、医療用薬品については未知の領域であり、いざやるとなると備蓄薬確保や医師の手書き処方箋の判読、調剤講習など問題が山積みで現実とのギャップに戸惑いがありました。

 

各地の薬剤師会はサポートに注力し会営薬局や備蓄センターを配備して、医療機関からの処方箋を確実に処理できるような態勢を整えたのでした。1980〜90年になると、新規の調剤専門薬局が病院や診療所前に開業しました。これは製薬会社のプロパーと呼ばれる営業担当者が独立し創業したのです。現在ある大手の調剤専門薬局チェーンがこの時にできたのでした。

 

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創業時には薬局本来の分業を無視する不正常な形態が出現しました。医療機関が外部に自らの薬局を設置するもので第二薬局と言われます。また処方箋発行元と癒着した形態の薬局が現れました。更に薬局側から医療機関に処方箋発行のリベートを支払ったケースまで現れます。

 

これらは医薬分業の考え方である相互に干渉しないということに反するものですが、逆に処方箋発行が加速された事実もあるのです。いずれにせよ、社会的に大きな問題になりました。

 

 

第二薬局規制、薬局業務GLで正常化を促す

 

厚労省は医薬分業への正常化をするために方策を打ち出しました。応急措置として1982年(昭和57年)に第二薬局規制通知を出しました。またリベートに関しては供与した側に一定期間の営業停止を行ったのです。そして正常化を促す薬局業務運営ガイドラインをだし、薬局の正常運営のためにその位置づけや役割を明確にしたのです。

 

 

調剤薬局の取り扱いについて(昭和57年5月27日、厚労省薬務局長通知 抜粋)

 

@調剤薬局としての適格性
調剤薬局の在り方について、構造的、機能的、経済的に医療機関から独立していること

 

A保険薬局の規定に当たっての指導等
医療機関の同一の建物又は敷地にあって、総合的に判断して医療機関の調剤書とみなされる調剤薬局については、保険薬局の指定を行わないこと

 

B保険薬局に対する指導監査
保険薬局としての適格性に問題があると考えられる薬局については、その指導を強化し、併せて当該保険薬局に関係する保険医療機関に対しても指導を行うこと。




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